昭和39年12月31日 朝の御理解
本年最後の朝の御祈念を、終わらして頂きました。私共が日々、えぇ信心を求めて、信心の稽古を365日、39年という一年を、振り返ってみて、どう頂いてきたか。ね。あまりにも実意のない、信心であったこと、を痛感致します。
椛目に沢山の会員の方がおられます、その沢山の会員の方達がです、本当に今年も相済まん一年であった、せめてこの12月の一月なりと、と例えば言うような、意欲を持って、信心を追及してみえる方があるだろうかと、心密かに祈りもし、また思いもした。けれども、そういう人も無かった。いよいよ今年、最後のせめて今日一日だけでも、本気で実意を持って大事にさせて頂こうという、人すらも、今日のほとんどの人が無かった。実に相済まんことだと私は思うですね。朝参りをさせて頂いておるけれども、ねせめて、本年最後の今日一日ぐらい、ねせめて、これが私は信心だと思うんです。横着です。ネズミよりつまらん。
先日でしたか、もうとにかくあれほどおかげを頂いておったネズミが、大暴れに暴れて、まるっきりここを運動場のように、昼でもあっち行ったりこっち行ったりするような、しかも昼でも、御神殿に現れてくるよな、あぁ乱れた状態になって私はいよいよ、これは私の信心の乱れであると、もう多いに悟るところがあった。ね。私はだから皆さんの前に、朝の御祈念の時に、皆さんに聞いてもろうた。ね。これは私の信心がこんなにも大乱れに乱れておる印なんだと、ね。とにかくこれがネズミが横着になった、無心のネズミが横着になるはずがない。ね。こちらの信心が横着になっておるのである。私はそこを感じた。ね。そして、私は、今日を限りに祈らせてもらう。二日経っても、三日経っても、やっぱり、同じ事であった。ちょうど月並祭から月並祭まで、やはり御神殿が荒らされ神饌室が荒らされ、私の控えが荒らされた。ね。ネズミ捕りとか、ね、猫いらずを例えば、用意してからネズミ退治するといったようなことをでは、私はいけない。自分の信心に繋がっておる、なのだから。祈りに祈り、私も改まりに改まらせて頂いて、月並祭から月並祭までだったでしょうが、(?)のネズミが、言わば、例えば出ましてもです、それこそ(?)(?)して、しか出てこないようになったでしょうが。私の部屋にはお鏡さんがいっぱい置いてございます。ね。神饌室にお供え物が入りませんから、私は昨日はお広前にいっぱい出さしてもらいました。神饌室にもお鏡さんがいっぱい置いてございます。けれどもそれにです、ね、摘もうとも食べようと、しなくなったじゃないですか。ね。ネズミならネズミの、言わば、場というものを神様が与えて下さっておるんだなと思うのです。それにどうですか、皆さんの信心は、(?)ごと以上に皆さんの事私祈っておるはずだけれども、それを、祈りがです散漫になっておると私は思わん、受け方が悪いのじゃ。横着なんだ。ね。せめて今年は出けなかった、だからせめて12月だけでも、と例えば実意を込めて信心する人があるかと思うておった、なるほどお参りは沢山あるけれども、結局信心を求めての者がいないということである。おかげだけを求めておるのでは、(?)が良いだけなんだ、ね。今朝ぐらい、(?)の朝の御祈念ぐらい、こんなに大変なこんにっ、もっもう本当に(?)って、せめて今日の31日という今日、今日の終一日ぐらい、実意を持って一日でありたいと願う者があるかと思ったら、それも無かった。来年も大変な年になりそうにあるからよりも、私あたらっ、私として、新しい天地を求めてでも、という気持ちを心の中に描いておる。ね。
どうでしょう、私は椛目を捨てて新しい天地に、例えば出て行くとする。ね。付いて来る者は付いてこうという時に、付いてこん者があるだろうか。今までのことじゃっとなかろうとも、いや私はまた付いて来て欲しいとも思わない、それ(?)仕方がない。ね。
信心を求めてのっ、のものでなかなきゃダメ。ね、おかげを求めない者はありません、けれども、(?)には徹頭徹尾私は、この1年365日という日をです、一日を、言わば信心を信心をと言い続けてきたじゃないですか。お広前金光様、今年の年頭に、こういうようなお書き下げを下さった。「実意を込めてすべてを大切に」と。この実意を込めてすべてを大切にということが、どれほど出けたか、ね。言うならば、ね、ネズミと皆さん私は(?)たけれどもです、ね、ネズミですら、一月っ、月並祭から月並祭の間に、私の元に(?)、そのネズミすらおかげを頂いて(?)なら、どういうことか?と。横着だからなんだ。ね。三代金光様に、「実意とはどういうことでございましょうか?」と、「実意とは横着と、ね、わがままをしなければよろしいでしょう」と仰ったということです。実意がないのじゃ。ね。うんならば、横着なんだ。ね。それで、おかげを頂けても、お徳を頂けるはずはありません。ね。
今年の、言うなら、(?)治め、ね、せめて、ね、椛目からでも良いです、ね。今晩の除夜祭を仕えさして頂くまでに、本当に一年中の事は真からお詫びが出け、心からです、お礼が言えれる、横着であったことに終お詫びさしてもろうて、にもかかわらずかくまでのおかげを頂いたことのです、お礼参拝が出けるような、一つおかげを頂いて欲しい、今日一日でも、言わば身の詰まった、言わば実意な、一日でありたいと。そう私は願っております。ね。
信心には、ね、最近根性ということが言われます。筋金が入っておらなきゃいけません。おかげも頂かなければなりません。ね。けれども、信心を頂きたいとう筋金が入っていなきゃいけません。どういう信心が、ね。実意な、私は信心が、筋金にならなきゃいけん。なら実意とはどういうことかと、おうっ、横着とわがままと、私共の心から差し引いたら、私の心は実意だと言われるけれども、その中の一つであるところのです、ね、横着な心というものを除かせて頂いた、ね、一日でありたい。ね。
なるほど、無心のネズミですら、そうした祈りが通っていくのに、私共に通らないということはおかしい、それは私共に実意がないからだと。ということを分からしてもろうて、いよいよその実意をです、せめて今日一日でも追及さしてもらい、心からお詫びの出けれる、今晩の除夜祭に持ち込んで、そしていよいよ新しい年を迎えたい、そんな風に、まあ思い、思い続けさして頂きたいと、今日私は念願致しております。
おかげ頂かなきゃなり、、、、。